伝北畠顕家墓 |
北畠公園の中にある阿倍野神社境内に北畠顕家の墓と伝えられる石碑があります。
北畠顕家(あきいえ)は南北朝時代の武将で、父の親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)とともに後醍醐天皇に仕え、建武の新政のとき16歳で陸奥守に任ぜられ、義良親王を奉じて奥羽の統治にあたりました。
親房は陣中にあって職原抄(しょくげんしょう)(日本最初の法制史)、神皇正統記(じんのうしょうとうき)等を著述し、正平9年(1354)大和賀名生(あのう)で没しました(61歳)。
顕家も各地を連戦しましたが、延元3年(1338)にわずか二十騎の手兵で足利尊氏と戦い、奮戦の末手兵全員と共に戦死(21歳)しました。実際の戦没地は、堺の南・石津川付近といわれています。

顕家は最後の戦に臨んで死を覚悟したのか、死の7日前に、後醍醐天皇に宛てて「7か条の諌奏文」をしたためました。諌奏文の主な内容は、
○租税の減免
○倹約の励行
○官吏登用の厳正化
○法の遵守
○無能な天皇側近の排除
などというもので、正義感の強い知将の姿を覗わせます。
・阪堺電軌上町線東天下茶屋下車10分
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